皆様、こんにちは。谷です。
今日は満月。6月イチゴが最盛期なことから『ストロベリームーン』と呼ばれています。本日は雨ですので、大阪で見れるかどうかわかりませんが、楽しみですね!そして、7月は今年最大の満月『ビックムーン』です。
どちらも見れるとラッキーですね!!
さて、今回はA.ランゲ&ゾーネの設立者フェルディナンド・アドルフ・ランゲについての第16弾をご案内します。
(当シリーズはラインハルト・マイス氏が語った内容の資料をもとにお伝えしています。)
アドルフランゲの出生や学生生活などについてはそれぞれの章をご覧ください。
①ランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期
②ランゲ少年、時計師への道のり
③ランゲ青年、時計製造国フランスに行く
④‐⑫旅の手帳の中身とは?(Page4-Page37まで)
あらすじ
1815年2月18日に、ドレスデンにてアドルフ・ランゲは生まれる。
両親が離婚した後、ランゲ少年は知り合いの商家に引き取られて育ちます。育ての親のおかげで、ドレスデン技術学校に通わせたもらった彼はハイレベルな時計の知識を身に着けます。
1830年からは学生をしながらグートケスの弟子として実践トレーニングを積み、1835年、彼は当時時計大国であるフランスに旅をします。
旅に出る前に師匠グートケスにもらった手帳には、メッセージがかかれており「祖国を忘れることなかれ」から始まるメッセージがあります。現在も手帳は本社にて保管され、時計製作の際には必ず目を通しているようです。
では、『旅の手帳』に書かれていた事とは?今回は37-38.39ぺージの内容を記載していきます。
Page37-39
37ページに描かれている扇状の図表は与えられたホイールの歯車の歯の厚さを計測するための六分儀(時計の歯車を測る道具)の縮図です。
1リーニュの40部品の歯の厚さをもとに定められたものです。
黒い長方形が歯の幅を表し。空白は白で表されます。
図解されたテンプレートの上では行の上部にある黒いスペースは正確に1リーニュ(2.2559㎜の幅)であるよう求められています。
2/40リーニュから10/40リーニュまで狭くし、その後1/40刻みで角度を付けいていきます。
2/40リーニュから10/40リーニュまで狭くする意図
半径が等しく部分に分割されている限り、縮小は線状となります。
つまり、縮小では六分儀と同じく歯の幅は1リーニュの半分、半径の半分となるか、もしくは20/40リーニュ以下となります。
更に原則として、分割することを選べます。
半径は40分の1に分割さて、それに応じて番号(数字)が付けられます。
歯付きホイールを図上にセットし、その歯の列が長方形を覆うように移動した場合、その歯の幅を横に並べて読み取り、36ページの表から円の直径を調べるために使用されます。
当時、利用可能な測定器は小さな幅、例えば5/40リーニュ(0.28㎜)を測定するのに適しておらず、代わりに光学測定(19世紀初めに見つけられた方法)がよく用いられていました。
短距離を細分化する場合(page37下の図)10進法を用いて求めます。
これはランゲが20分割そして40分割した10リーニュになります。それらの間には中心からそれぞれ5リーニュの差があります。
10進法をもちいたことで、1リーニュのスケールを正確に30リーニュから1/40リーニュまで計測できます。
測定方法は歯車や時計のガラスを図の中心に置き、直径が垂直・水平ラインに交差する点まで動かします。
例えば、歯車を中心に水平に置くと垂直が4列目、水平ラインが16となり5+4+16/20リーニュ又は9と16/20リーニュ(10.8㎜)となります。
歯車の数が54-154の歯を持つ時計で40リーニュまでの歯車の直径を表にしたもの。
これもすべてアドルフ・ランゲが1つずつ計算を行い求めた。
まとめ
あの有名な図形の下には、アドルフ・ランゲが発明した時計の計測図表があったのですね!
置くだけでサイズや厚みなどがわかるとなると、当時としてはとても珍しいことではないでしょうか?
このような努力があり、アドルフ・ランゲは東ドイツ・グラスヒュッテで若い人を15人雇って時計作りを始めることが出来たのです。
メートル法だけでなく、図表や時計の計測にも力を入れたランゲが求めたものは一体なんでしょう?
是非皆様も想像してみてくださいね。
次回は40ぺージ、41ページを翻訳していきます。