皆様、こんにちは。谷です。
ここ数日また寒くなってきましたね!まさに三寒四温。気候もゆっくりではありますが、春に向けて動いてる証ですね。
今回は、A.ランゲ&ゾーネの生みの親『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』について焦点を当てて紹介しています。ランゲの歴史を語る際には必ず1回は聞く名前。それが『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』の名前ではないでしょうか?
『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』と聞くと人格者であったことや努力家であったことが挙げられます。そして当時珍しく学校にも通うのです。彼は裕福な家のうまれだったのか?今回は『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』の出生についてお話していきます。
『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』は、1815年2月18日、ドレスデンにて生まれます。
彼の父親であるジョアンナ・サムエル・ランゲはセルビアから帰化した移民でした。彼は王族のライフセイバーとしてガンスミス(銃の整備士:鉄砲職人)として雇われその後、擲弾兵(てきだんへい:陸軍で組織されていた歩兵部隊の一種。手榴弾を投げることを任務とした兵隊)として活躍しました。
ジョアンナは数多くのナポレオン戦争や遠征にも参加し、最も遠いところではモスクワまで行きました。
彼は元兵士で明らかに獣的(本能優先で振る舞う人)であったため、彼の人生を普通の人のように戻す事が出来ず、民間人としての生活を送ることができませんでした。そのためか、『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』はとても繊細な子でした。アドルフ・ランゲは彼の父親であるジョアンナからの過度の厳しさや激しさに苦しみました。
離婚をし、母親がジョアンナのもとを去ってからは拍車がかかり、深刻さは増す一方でした。
ジョアンナは彼女の姉妹と幼いアドルフ・ランゲを連れて友人で、商人のハーバー家に引き取られ、育つのです。
そして、彼は初めての国民学校(Volksschule:今でいう小学校)に通います。その後1829年から1831年にかけてドレスデンでローマン氏が経営するドレスデン技術学校に進みます。
3学年目にして、同じ生徒であるフレデリック・グートケス(のちのランゲの師匠グートケスの息子)と出会い、長く交友関係を築きます。
彼らは同い年でした。1829年春から1830年の春までの1年間の勉強の後、彼らはより知識を広げるために学校側に2年生への進級許可を申し込みました。
1829年から1830年の1年生のカリキュラムは下記のようになっており、週41時間学ぶことが必要とされていました。
数論幾何学 …2時間
高いレベルの数学 …2時間
化学 …4時間
技術 …1時間
ドイツ語 …2時間
手書き(美術) …2時間
建築の絵 …5時間
機械の絵 …2時間
エングレービング …3時間
モデリング、ユンボス加工…10時間
2年次のランゲとグートケスは1週間で54時間学び続けました。
下記の3つの教科を追加で学ぶこととなりました。
ジオメトリーとアルゴメトリー…4時間
科学と化学 …3時間
フランス語 …5時間
いかがでしたか?
今回は幼少期の『フェルディナンド・アドルフ・ランゲ』についてでした。
ドレスデン技術学校に入学し、機械について勉強をはじめたアドルフ・ランゲ。
次回は、アドルフ・ランゲがどのようにしてグートケスの弟子となったのか時計見習いとしての生活を送っていたアドルフ・ランゲについて紹介していきます。
下記のURLはそれぞれのシリーズの紹介をしています。是非ご覧くださいませ。
https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/alangesoehne-boutique-osakashinsaibashi/3550(ランゲ1)
https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/alangesoehne-boutique-osakashinsaibashi/3167(サクソニア)
https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/alangesoehne-boutique-osakashinsaibashi/2224(1815)
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