皆様、こんにちは。谷です。
2月も残り僅かとなってきました。
今回はランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期の続きである、時計技師になるまでの道のりを紹介したいと思います。
前回までの内容を詳しく知りたい方はこちらのURLからご覧ください!https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/alangesoehne-boutique-osakashinsaibashi/3561
あらすじ
1815年2月18日に、ドレスデンにてアドルフ・ランゲは生まれる。
両親が離婚した後、ランゲ少年は知り合いの商家に引き取られて育ちます。育ての親のおかげで、ドレスデン技術学校に通わせたもらった彼はハイレベルな時計への知識を身に着けます。
2年間学んだアドルフ・ランゲは、当時普通なら大学での教育を受けた技術者や技師でなければ許されないようなレベルの高い教育を受けることになります。彼は学校に通う傍ら、実用的なトレーニングを必要とし、アドルフ・ランゲは時計の見習いか技師としてスタートすることを決めました。
その時計技師こそがジョアンナ・クリスティアン・フレデリック・グートケス。アドルフ・ランゲの友人、フレデリック・グートケスの父親だったのです!!
そうして、1830年の春に正式な申請のもと、学校からの許可がおり、グートケスの時計見習いとなりました。当時アドルフ・ランゲは15歳でした。
ローマン(人名)は技術学校を設立する前に、市内の多くの時計職人に対して学生を受け入れる体制を作る/利用するように呼びかけました。
そのうちの一人が当時有名な時計技師のグートケスでした。彼は装飾を施した時計の店として、最も権威ある時計ビジネスを行っていました。
若いフレデリック・グートケスは、父親のもとで見習いとなるために学校側にランゲと同じように申請をしたに違いありません。
時計組合(ギルド:中世より近代にかけてヨーロッパで商工業者の間で結成された各種の職業別組合の事)と長老のルーランドとの交渉は1930年10月まで続き、同年の春まで遡り正式にアドルフ・ランゲがグートケスの見習いとして認められるまで続きました。
こうして、ランゲとグートケス(息子)は共に見習い時計技師としてフレデリック・グートケスのもと、時計屋にて学び始めました。
アドルフ・ランゲは1830年春から1835年春まで、グートケスの下で5年間時計技師として学ぶことになるのです。
彼は見習い時計技師として学ぶ傍ら、技術学校(のちに公立の専門学校と名前が変わる)に出席する事になります。
証の内容
1830年12月20日 ドレスデン
これにより、1829年のカミエル祭から1830年末まで長老であるルーランドによって確認が与えられます。
フェルディナンド・アドルフ・ランゲ
見習いとして登録する
Herr Gutkaes
1830年、春
学生時代の彼については彼が『謙虚で、知的で、技術を持っていたこと』を除いて、ほとんど知られていません。
ランゲはフランス語を1週間のうち5時間学だけではなく、彼の上司と中庭でフランス語を話す練習などを行っていました。
ランゲは大学で学んだ理論的知識に建設的な考えを適用し、発明の隠された天性の贈り物の実用化の基礎を築きました。これにより、常に過去にあったものを改善し、メカニズムを必要最低限に抑えることを学びました。
ランゲの上司であるジョアンナ・クリスチャン・フレデリック・グートケスは数学と物理学サロンの機械エンジニアでもありました。(正式には1831年から)
それはアドルフ・ランゲが放課後に、天文台で行った天文観測からすべての公共時計の標準時間を提供したローマンの時報を知らせるところに訪ねることを可能としました。ルーマン天文台の間はグートケスのセカンドカウンターが用いられていました。
当時、ランゲはイギリス製、フランス製の時計や機械に興味を示し、高性能の時計の価値を学びました。
ランゲはグートケスの時計やで働くことを通じて最高精度の時計の芸術性、時計学によって開かれた機会の重要性について深く理解しました。
科学と航路(航海や航空などの路)は常に正確な時間を必要としていました。しかし、すぐに精度の高い時計をつくることができず、最も熟練した時計メーカーの職人だけが作る事ができたのです。
1835年、ランゲは時計の勉強を終え、1837年にマインツ(彼はこの地で、ヨハン兄弟によって作製された時計を見て、永久暦のメカニズムの詳細に研究した)からパリに旅に出る2年間、職人としてグートケスト共にいました。
当時パリはフランスの時計学の中心でした。フランス語の知識を持っていたランゲはフランスに数年間滞在し、精度の高い時計とクロノメーターの構造についてさらに学ぶことを計画していました。
いかがでしたか?
次回は、ランゲの旅の始まりについて記載していきます。