皆様、こんにちは。谷です。
10月も残すところ10日。今年も残り3か月を切りましたね。
毎回、この時期になるとお伝えしておりますが、本当に時が過ぎるのが速いです!
さて、今回はA.ランゲ&ゾーネの設立者フェルディナンド・アドルフ・ランゲについての第34弾をご案内します。
(当シリーズはラインハルト・マイス氏が語った内容の資料をもとにお伝えしています。)
アドルフランゲの出生や学生生活などについてはそれぞれの章をご覧ください。
①ランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期
②ランゲ少年、時計師への道のり
③ランゲ青年、時計製造国フランスに行く
④‐㉖旅の手帳の中身とは?(Page4-Page65まで)
㉗~諸外国を回った後のランゲの人生
ランゲが特許を取得したクロノグラフとは?
ランゲは次の段階として、時計が止まる時に『0』に秒針がなる懐中時計を作る事でした。
ランゲはすでにパリのウィンナーズで『クロノグラフ』のような機構を作り、その後ドレスデンでも同じものを作ります。しかし、秒針のフライバック機構はなかったのです。
ランゲがゼロ調整機構を実現できたのはグラスヒュッテでのみであり、彼自身の発明ではありませんでした。
彼の最初のクロノグラフは文字盤の下にあり、1868年からの日付となっております。
その文字盤は、中央に取り付けられた分針と停止可能な秒針を備えた天文台の調整器の文字盤に似ていました。
コンスタントフォース脱進機、ジャンピングセコンド、クロノグラフ、リピーター、これらの4つのムーブメント。
ランゲは生前、グラスヒュッテの複雑時計の急速な開発のためにパラメーター(媒介変数:基準によって変化する数字)を確立しました。
なぜならアメリカメーカーたちは彼を非常に重要な人物として見ていました。
1870年代初頭からランゲはハバナ、St,Louisに複雑系ムーブメントだけを届けており、ゴールドの税関基準にもしたがっていました。
ケースは彼の仕様通りとなっていました。彼はベゼルと文字盤上のムーブメントに直接固定できるようにする、ケーシング(ムーブメントをケースに入れる作業)を早くから行っていました。
この作業はダイヤルと針を守る役割も果たしました。早くも、1863年には米国特許(No,37449)を取得しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
クロノグラフ、ジャンピング背温度、リピーターなど今も製造が難しい時計を1860年代には完成をさせていたと思うとロマンを感じますよね!
一方で当時にはすでに金の関税などがあったと思うと面白いです!
当時から金は非常に価値のある貴金属と思うと同時に、加工のしやすさなどが重視され当時は使われていたのかな?とも思います。
次回は、アルミニウムで作成されたヒゲゼンマイについてです!