皆様、こんにちは。谷です。
昨日の暖かい天気とは異なり、雨が降り寒いですね。
今日のような日は普段の疲れなどが出やすくなります。無理をせず、体調にお気をつけてお過ごしくださいませ。
さて、今回はA.ランゲ&ゾーネを立ち上げたフェルディナンド・アドルフ・ランゲがスイスやフランスで修業した時に学んだことを書いた手帳の60-65ページを解説していきます。ついに最終回です!
A.ランゲ&ゾーネの設立者フェルディナンド・アドルフ・ランゲについての第26弾をご案内します。
(当シリーズはラインハルト・マイス氏が語った内容の資料をもとにお伝えしています。)
アドルフランゲの出生や学生生活などについてはそれぞれの章をご覧ください。
①ランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期
②ランゲ少年、時計師への道のり
③ランゲ青年、時計製造国フランスに行く
④‐㉓旅の手帳の中身とは?(Page4-Page59まで)
あらすじ
1815年2月18日に、ドレスデンにてアドルフ・ランゲは生まれる。
両親が離婚した後、ランゲ少年は知り合いの商家に引き取られて育ちます。育ての親のおかげで、ドレスデン技術学校に通わせたもらった彼はハイレベルな時計の知識を身に着けます。
1830年からは学生をしながらグートケスの弟子として実践トレーニングを積み、1835年、彼は当時時計大国であるフランスに旅をします。
旅に出る前に師匠グートケスにもらった手帳には、メッセージがかかれており「祖国を忘れることなかれ」から始まるメッセージがあります。現在も手帳は本社にて保管され、時計製作の際には必ず目を通しているようです。
では、『旅の手帳』に書かれていた事とは?今回は旅の手帳の最終回60ぺージから65ぺージの内容を記載していきます。
Page60-61
クォーターリピーターとアラーム付きのシリンダー懐中時計です。リピーターの構造はムーブメント側、クォーターカムに取り付け主軸は中央歯車とカムに垂直に取り付けられています。クォータータックは6つの歯を持ち、それらの通じて2つの密接しているハンマーまでつなぎます。テンプは従来の補助付きスプリングでそれぞれの軸にピン留めされています。
Page65まで
これらのページはいくつかの予備のスケッチが描かれています。ランゲは最後のページにコンスタンフォースの構造ムーブメントを改めて書いています。page27で紹介したものと似ています。それは複雑ではありませんが、機構はスケッチの仕方により、より明らかに見ることが出来ます。
今日ではランゲの旅の手帳は彼が興味深いと思った時計に関する確かな知識とムーブメントを示し、それを写真アルバムの様にしてみることが出来たと考えます。
それはのちに彼のキャリア(仕事)の中でインスピレーションの元となる参考書のような存在となりました。一方で、それ(旅の手帳)はかつての彼の作業台の上にありました。
ランゲは実際にアイディアに頼りました。グラスヒュッテでグートケスの仕事から独立する為でした。
ランゲがパリから戻ってきたという記録はありませんでした。しかし、1841年頃彼は一度師匠・グートケスのドアを叩いています。そう彼はグートケスとの約束を実現したのです。グートケスが旅の手帳に書いた『祖国を忘れることなかれ。あなたが戻ってくることを腕を広げて待っているよ。』と。
彼の結婚は1842年の事でした。師匠グートケスの娘、アントニー・グートケスと結婚。彼の歓迎にふさわしいことでした。
ランゲはフランスから戻り、行わなくなったことがあります。それは古いフランスの単位での計測です。
彼はドレスデンに戻ってきてから、厄介な計算とおさらばするためにフィート、リニュー、1/100リニューといった単位を捨てました。彼は学生時代、技術学校で学んだ小数表示を教え、採用しました。
それでも実際はマイクロ単位表示は1844年にドレスデンにて行われ、また英語にも翻訳され、インチは伝統的な計測表示方法として時計メーカーに根付いていきました。
まとめ
いかがでしたか?
ウォルターランゲが命を懸けて、東ドイツから西ドイツに持ち込んだ『旅の手帳』
A.ランゲ&ゾーネを立ち上げたフェルディナンド・アドルフ・ランゲがフランスやスイスに足を運び、実際に見て経験し、学んだことを自身の時計への知識に昇華するために書いていた旅の手帳は、現在ではA.ランゲ&ゾーネを語る上で外すことのできない大きなキーポイントとなっています。
時計がどのように誰によって、つくられているのかなども知ることができる時計史としても貴重な資料です。
専門用語も多く、わかりづらい点もあったかと思いますお読みいただきありがとうございました。
まだまだラインハルト・マイス氏の資料を翻訳をしていきますので、次回もお楽しみに!