皆様、こんにちは。谷です。
5月とは思えな暑い日が続いたかと思えば、雨が降ったりとせわしなく変わりゆく気候ですね!
ゴールデンウィーク明け1週目、この平日はいかがお過ごしでしたか?
週末はゆっくりと時計をご覧になりながら過ごすのはいかがですか。
さて、今回はA.ランゲ&ゾーネの設立者フェルディナンド・アドルフ・ランゲについての第13弾をご案内します。
(当シリーズはラインハルト・マイス氏が語った内容の資料をもとにお伝えしています。)
アドルフランゲの出生や学生生活などについてはそれぞれの章をご覧ください。
①ランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期
②ランゲ少年、時計師への道のり
③ランゲ青年、時計製造国フランスに行く
④‐⑫旅の手帳の中身とは?(Page4-Page31まで)
あらすじ
1815年2月18日に、ドレスデンにてアドルフ・ランゲは生まれる。
両親が離婚した後、ランゲ少年は知り合いの商家に引き取られて育ちます。育ての親のおかげで、ドレスデン技術学校に通わせたもらった彼はハイレベルな時計の知識を身に着けます。
1830年からは学生をしながらグートケスの弟子として実践トレーニングを積み、1835年、彼は当時時計大国であるフランスに旅をします。
旅に出る前に師匠グートケスにもらった手帳には、メッセージがかかれており「祖国を忘れることなかれ」から始まるメッセージがあります。現在も手帳は本社にて保管され、時計製作の際には必ず目を通しているようです。
では、『旅の手帳』に書かれていた事とは?今回は33ぺージの内容を記載していきます。
Page33の内容
Page33:振り子のメイラーデットの戻り止め脱進機はルポート補助が付いていました。
原理についてはすでにガイスラーによって説明されていました。しかし、ランゲの旅の手帳に記載されているものは少し違いました。
ヘンリー・メイラーデット
1745-1815 スイス人
ドイツ、ベルリンやロンドンで時計、オートマトンの製造を行ってきたピエール・ジャケ・ドロズの店で働き、1791年以降は独立して働く。
ジャン・アンドレ・ルポート
1720-1789
1748年、パリに現れ、フランスの時計メーカー王朝の創設者。
1753年にはコンマエスケープメントを発明した。王とより親密な関係を持っていたキャメロンにダブルバーグルの発明をもたらしました。彼のアマントピンパレット脱進機の開発は精密時計に広く使用されていました。
ランゲは実際にこの動きを見たに違いありません。
そして、ランゲはその個々の動きを表すようにその機構を研究したに違いありません。
ここに表示されている原理によると振り子の補助は1798年にセイファート(seyfert)によって既に実装されており、ボーデによって説明されています。
ヨハン・ボーデ
1747-1826 天文学者
ベルリン科学アカデミーも王立天文台の所長。1776年には天文学の本を出版している。
セイファート(seyfert)の時計と同様にガンギ車には垂直ピンがあります。
berthoudの動きでは歯が水平です(図2)
振り子の戻り止め脱進機の動き
右側にレバーが振れると、ゼンマイaaはアームgにあたり戻り止めfが解放されます。
アームeが脱進機の歯車を解除します。その歯がレバーのノッチに噛み合い、振り子にレバーのピンLを介して衝撃を与えます。
そして再び左側に脱進機に影響を与え、振り上がります。
ゼンマイaaは単純に戻り止めレバーfのアームg上をスライドします。
したがって振り子は毎秒衝撃を受けます。
ゴーイングトレインは秒針がジャンプするように計算されています。ここから歯付きバレルに直接連動します。
ムーブメントの中でもランゲはヒューズトチェーン経由で描いています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
振り子の動きが詳細に記されており、大変興味深いですね!
様々な人が説を説き、ランゲもそのうちの1人だったと思うと、あの短期間でA.ランゲ&ゾーネが発展した理由も少しわかるような気もします。
振り子の原理や歯車の仕組みなど1つ1つを丁寧に学ぶことにより、当時懐中時計という片手で収まる時計の発展に繋がっていたんですね。今回は、33ページまで。
次回は、35ページを紹介していきます。