皆様、こんにちは。谷です。
最近は20度前後の気温で過ごしやすい日が続きますね!
さて、今回はA.ランゲ&ゾーネの設立者フェルディナンド・アドルフ・ランゲについての第11弾をご案内します。
(当シリーズはラインハルト・マイス氏が語った内容の資料をもとにお伝えしています。)
アドルフランゲの出生や学生生活などについてはそれぞれの章をご覧ください。
①ランゲの生みの親『アドルフ・ランゲ』の生い立ちと幼少期
②ランゲ少年、時計師への道のり
③ランゲ青年、時計製造国フランスに行く
④‐⑧旅の手帳の中身とは?(Page4-Page25まで)
あらすじ
1815年2月18日に、ドレスデンにてアドルフ・ランゲは生まれる。
両親が離婚した後、ランゲ少年は知り合いの商家に引き取られて育ちます。育ての親のおかげで、ドレスデン技術学校に通わせたもらった彼はハイレベルな時計への知識を身に着けます。
1830年からは学生をしながらグートケスの弟子として実践トレーニングを積み、1835年、彼は当時時計大国であるフランスに旅をします。
旅に出る前に師匠グートケスにもらった手帳には、メッセージがかかれており「祖国を忘れることなかれ」から始まるメッセージがあります。現在も手帳は本社にて保管され、時計製作の際には必ず目を通しているようです。
では、『旅の手帳』に書かれていた事とは?今回は26-27ぺージの内容を記載していきます。
Page26-27の内容
コンスタントフォースクロノグラフは脱進機の戻り止めをします。
この機構を旅の手帳にのっている図を拡大しそれぞれのパーツに数字やアルファベットをふって説明すると、下記のようになります。
垂直にあるZの歯は、ガンギ車と一緒に時計まわりに回転します。4つのアームのインパルスレバーの下で回転し、コイルバネeによって、時計回りに戻されます。
戻り止めのレバーYもスプリングgのバーの下で回転し、時計回りで押し出されます。
ロッキングスプリングUは、その長さの都中にフックkをかえします。アンクルhはリリースローターVによって運ばれます。
てんびんには、ばね駆動のインパルスレバーX(点線で示している)から、衝撃が与えられ、パレットストーンhから戻り止めレバーYに結合し、fポイントが解放されるまで脱進機の歯1を押し続けます。
ガンギ車が時計回りに回転することで、2番の歯をaのアームにかみ合わせます。
アームaを動かすとペグcがロッキングスプリングUのフックkの下に移動します。そうすることでヒゲゼンマイeが張ります。
(※図のひげゼンマイは間違った方向にらせん状に描かれています。ひげの向きは本来、反時計回りです。)
天秤が振り戻るとアンクルiは戻りどまり、脱進機が通常の方向に金ばねwを通過します。
次の前方への振動中にアンクルiは、ロックスプリングを開放し、インパルスレバーXがアンクルhを介して、アンクルに別の衝撃を与えることを可能にしています。
この衝撃はゼンマイから独立しており、推進力の瞬間はゼンマイeから来ています。
よく調節された脱進機は時計に用いられる際にも同じである必要があります。
インパルスレバーの調節可能な重みdによって、動的エネルギーを均等化できます。
戻り止めのメカニズムはマイクロローターネジbとmで、非常に厳密に調節することが出来ます。
この脱進機の図解はウルバン・ヤーゲンセンが執筆した本「マリンクロノメーターの脱進機」に描かれていました。
※ウルバン・ヤーゲンセンのマリンクロノメーターの脱進機についての本は1805年、コペンハーゲン。
ランゲは現在は残っていない資料の1つである脱進機について重要な機構をスケッチし残していたのです。
このような脱進機を用いた実験は非常に広範囲に渡って行われましたが、調整の繊細さのために時計で常に機能するとは限りませんでした。これらの脱進機のうちトライアル段階を通過したのはごくわずかの脱進機でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
とても貴重な資料だとは思わず驚きでした。現代では機械式時計に脱進機がついていることが当たり前のように感じますが、1つ1つの機構も実験を重ねてできていると思うととても魅力的ですよね。そして、どうして当時の懐中時計が非常に珍しいのか分かった気がします…。
次回は、Page28-31を翻訳していきます!