皆様こんにちは、小田です。
いつもパネライ 大阪心斎橋ブティックのブログをご覧いただきありがとうございます。
イタリア軍用時計として名高いパネライは、誰が見てもわかるアイコニックなデザインとスポーティーさが人気です。
皆様はパネライの歴史をご存知ですか?
今回はブランドをもっと好きになっていただきたいという思いから、パネライの歴史を改めて詳しく振り返っていきます。
少し長くなるので3章編成で投稿していきますので、是非お付き合いくださいね。
オリジナル・パネライ時代(1860~1935年)
1860年、イタリアのフィレンツェの地に「スイス時計店」を開設。
創業者である『ジョヴァンニ・パネライ(1825~1897)』は、アッレ・グラツィエ橋の上で小さな時計店を始まりとし、ファミリー・ビジネスを創始しました。
パネライのごく初期は、製造メーカーではなく小売り店としてスタートしたというのが驚きですね。
さらに時計の販売店および工房としてだけでなく、フィレンツェ初の時計製造学校としての役割も担っていました。
1876年に改修工事が行われる以前のグラツィエ橋。(右画像)
日本では橋の上に店舗があることは珍しいですが、この頃パネライ以外にも肉屋・理髪店・八百屋・焼き栗屋などが営まれていたようです。
ジョヴァンニはフィレンツェの街で初めて時計店を営み、スイスの一流メーカーともこの店を通じて交流が始まりました。
橋の拡張工事に伴って、当時のパネライも移転を余儀なくされました。フィレンツェ市内を転々とし、最終的に現在の本店の位置であるアルキエピスコパル・パレスの中のサン・ジョヴァンニ広場3番地に落ち着きます。
ちなみに写真にいる、入口に立っているのは当時の従業員だそうです。
ジョヴァンニの孫である3代目『グイド・パネライ(1873~1934)』は、パネライを発展させた立役者。
当時イタリア国内で時計を専門的に学べることのできる機関はパネライしかなく、スイスから仕入れた部品を組み立てトスカーナ地方全域に供給しました。
また、広告の重要性を加味し、多くの製品カタログを発行して宣伝をいち早く行ったのもグイドでした。
さらにイタリア国鉄と契約をし、パネライを通じて鉄道員たちに時計が供給されました。
そして4代目『ジュゼッペ・パネライ(1903~1972)』は、父グイドの事業を引き継ぎ会社のさらなる発展に貢献しました。
彼は生涯のほとんどをイタリア海軍に特別製の機器を供給することに費やします。
ラジオミールやルミノールシリーズはジュゼッペが生み出したものです。
1916年、3代目グイドを中心にラジオミールが誕生します。
1914年から第一次世界大戦が勃発。イタリア軍の軍事的な要件に応えるため、パネライは海軍少佐カルロ・ロンコーニの協力を得て、ラジウムを使用した粉末を開発し、計器や照準器のダイヤルに塗布して視認性を高めました。こうして、ラジオミールが誕生したのです。
「ラジオミール」という名称の製品は、1916年3月23日、フランスで受理された特許書類に記録されています。極めて明るく発光するこの化合物により、瞬く間にラジウム塗料がパネライの主力製品となりました。
パネライは今までに、数々の特許を取得していますが、その第一号がこのラジオミールでした。
パネライとイタリア海軍 WW2まで(1936~1949年)
1936年、イタリア海軍の要請によりラジオミール(REF. 3646)を試作します。
パネライはイタリア海軍の納品業者に任命されました。現在の「ラジオミール」は、多くの点でRef. 3646の特徴を受け継いでいます。
直径47mmという大きなスティール製クッション型ケース、夜光数字とインデックス、ケースにはんだ付けされたラグ、高品質の手巻きメカニカルムーブメント、なめし加工を施した耐水レザーストラップ(潜水服の上から着用できる長さ)がその好例です。
「あらゆる点で卓越した性能を発揮した」と高い評価を獲得し、後の1938年から本格的に製品されることとなります。
↑はパネライが初めてイタリア海軍特殊工作部隊に供給したモデル。
現在でもカリフォルニアダイヤルとして復刻モデルの販売があります。
ただし、年間限定生産のため入荷数はごくわずかしかありません。実際に店頭で見られたら超ラッキーです!
1938年から1940年にかけてラジオミールの納品が進む一方で、様々な技術革新がされます。
文字盤の下に夜光ディスクを敷く二重文字盤構造、すなわちサンドイッチ文字盤の開発により視認性が向上しました。
ベルトを固定させるためにループ形状を変更し、ケースと一体化したラグの採用で強度を増しました。
この時のケースが現在の「ラジオミール 1940」の原型モデルとなります。
ここから『Radiomir』という名称が初めて記され、風防にはプレキシガラスを使用しています。
※「ラジオミール 1940」について詳しくご紹介している記事はこちらです。【https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/panerai-osakashinsaibashi-boutique/8052】ご参考にどうぞ。
また、1940年代初頭にはリューズプロテクターを採用したラジオミールが登場。
資料は珍しい左利きモデルです。
このリューズプロテクターを採用したことにより、その当時には追随を許さない200m防水を実現しました。
1943年、幻のクロノグラフ「マーレ ノストゥルム」が登場します。魚雷に利用するタイマーにその名が由来するクロノグラフで、発射時の計測で使用される目的でした。
ケースは直径52mmとかなりダイナミックな大きさです。
時代は第二次世界大戦の真っ只中。イタリア海軍の甲板将校向けに開発されましたが、プロトタイプの開発までで終わり商品化されることはありませんでした。
理由の一つとしてはこの年はイタリア国内が戦場になったことがあります。
この幻のモデルは後の1950年代にわずか2~3本が製造されました。現在残っているのは撮影用の数点と、試作品1点のみです。
この試作品は、オフィチーネ パネライ ミュージアムが、2005年に国際的なオークションで購入したものです。
1949年、「ルミノール」という名称の特許を取得します。第二次世界大戦が終結してわずか4年後の事です。
軍事的にも民事的にも、原子力技術が著しく進化したことによって新たな事実が判明し、4代目のジュゼッペは、放射性物質を含む素材の取扱いには注意が必要であることに気付きました。当時ルミノールにはトリチウムを原料とする新しい発光物質が使われており、放射性物質の量は非常に少なく、無害であると認知されるようになりました。
現在ではスーパールミノバという塗料が採用されていますが、この発光物質の開発はリュウズプロテクターと並び、パネライのダイバーズウォッチに共通する特徴となりました。
大戦後のパネライ(1950年代~1980年代)
1956年、「エジツィアーノ」が製作されました。
このモデルはエジプト海軍特殊部隊用の超大型60mmで、頑丈なステンレススティール製です。
8日間巻きのロングパワーリザーブであり、合計100本ほど納品されました。
リュウズプロテクターが初めて採用されたのもこのモデルでした。「エジツィアーノ」は、潜水時間を計算するための回転ベゼルを備えていることから、現代のサブマーシブルウォッチのインスピレーションとなったモデルです。
※「エジツィアーノ」について詳しくはこちらをご覧ください。『https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/panerai-osakashinsaibashi-boutique/7643』
同年、世界では冷戦が続く中、イタリアにてリューズプロテクターの特許が認可されました。
このパネライの発明は1950年代でイギリス、フランス、スイスでも相次いで特許を取得し、1960年にはアメリカで承認され国際特許となりました。
1960年代、サンドイッチ構造の文字盤を組み立てる工程で、ラジウムを原料とする塗料の使用が廃止され、「ラジオミール」という名称も使われなくなりました。放射性物質の含有量が少ないトリチウムを原料とする新素材「ルミノール」を本格的に使用していきます。
また、 一部のモデルでは、重厚な密閉式裏蓋の代わりに、内部機構が見えるよう中央に透明なプレキシガラスを使用した裏蓋が採用されました。つまり、パネライはシースルー裏蓋の採用を先駆的に行ったのです。
パネライの製品製造では、様々な状況に対応する手首着用型の水深計やコンパスのほか、圧力を補償する水中信号灯などを開発し続けます。イタリア海軍の要請によって製造・供給された精密機器に関する分野でも、極めて深い水域で卓越した耐性を発揮し、この時期に特に大きな進歩がありました。
1972年には4代目のジュゼッペが他界。エンジニアであり、かつてイタリア海軍士官も務めた『ディノ・ゼイ』に引き継がれ、パネライの新しいCEOにも任命されました。
そして「オフィチーネ パネライ(OFFICINE PANERAI)」が正式なブランド名となりました。
1980年代後半、冷戦が緩和する中で水深1000m防水のダイバーズモデルのプロトタイプが設計されました。
右画像は現存する唯一の1本です。ストラップは現在のアコーディオン型ストラップに似ていますね。
当時では画期的なチタン製のケースに、ETA(エタ)の自動巻きムーブメントが収められています。
針やインデックスの夜光は、かつて3代目のグイド・パネライが特許を取得した技術を現代的にアレンジして採用し、大深度での視認性も抜群でした。
まとめ
1860~1980年代まで、パネライは世界的な時計ブランドではなく、より専門的な技術を必要とされた門外不出のメーカーだったことがわかりましたね。
GPS機能の発展など技術の進化には戦争用として開発されたものが多くあります。
4代目のジュゼッペ・パネライは軍用モデルを多く輩出したとあり、当時の時勢を読み時計製造へ流し込む判断は素晴らしいと感じました。
私たちが今世界的に知られているパネライは、今回ご紹介したオリジナル・パネライ時代を支えた人物や歴史があってこそ成り立っているのですね。
次回はいよいよプレ・ヴァンドーム時代や世界デビューについてお話ししていきます。
是非ともパネライのモデルだけでなく、歴史も覗いてみてくださいね。
第2章はこちら→【https://www.jw-oomiya.co.jp/blog/panerai-osakashinsaibashi-boutique/8552】