皆様、こんにちは。谷です。
皆さまは、戻りたいと思う年代や想い出深い時期などはありますでしょうか?
私は戻れるなら、2000年代に戻りたいなぁと思う一方で、興味があるのは1990年代です。
1990年代と言えば、スーパーファミコンが流行ったり、車業界ではBMWのM3とメルセデスベンツの190E 2.3-16が1980年代後期から1990年代初頭にかけて、ドイツツーリングカー選手権(DTM)において両者一歩も譲らない激闘を繰り広げたりと怒涛の10年間だと思います。
そんな1990年代ですが、A.ランゲ&ゾーネにとっても忘れることが出来ない『復興』への道のりの10年でもありました。
今回は、A.ランゲ&ゾーネを語る上で外すことが出来ない、1990年12月7日に起きた出来事についてお伝えしていきます。
A.ランゲ&ゾーネにとって12月7日とは?
A.ランゲ&ゾーネにとって忘れることが出来ない日付それが12月7日です。
1845年12月7日にランゲの創設者であるフェルディナンド・アドルフ・ランゲがザクセン州の州都ドレスデンからグラスヒュッテに移住しザクセン王国の支援を受け自分の工房A・ランゲ・ドレスデン(A. Lange Dresden )を創業しました。
それから1948年に東ドイツに接収されるまで、貴族や皇族、時には他国への献上品として時計の製造をしていました。
1948年4月20日、A.ランゲ&ゾーネ4代目『ウォルター・ランゲ』は西ドイツに亡命。彼が1990年にA.ランゲ&ゾーネ復興するまで休眠することになったのです。
1990年12月7日を選んだ理由とは?
ウォルター・ランゲがA.ランゲ&ゾーネの登記の日に選んだのは1990年12月7日でした。
彼はどうしても1990年の12月7日に登記をしたかったのです。
この12月7日は、曾祖父であるフェルディナンド・アドルフ・ランゲが、ザクセンの山間の町グラスヒュッテに時計工房を開いてからちょうど145年という記念すべき日だったのです。
ところが、1990年12月7日は金曜日。12時までに書類を届ける必要があったのです。
雨の日のドレスデンと刻まれる分針
1990年12月7日金曜日、時刻は12時過ぎ。
ドレスデン市区裁判所の階段を雨が濡らします。ドアには鍵がかかており、扉を開けることが出来ません。
そのドアの前には特別な意味を持つ1通の書類を手に立ちすくむ配達員。
配達員がカギのかかったガラスドアの向こうを覗くと、エントランスホールを掃除している人が見えました。彼が大声で呼びかけ、ドアを叩くと、清掃員の人がドアを開けてくれました。
受付の女性職員もまだそこで帰り支度をしているしています。配達員が手短に事情を説明し懇願したところ、女性職員は書類に受付印を押して受付箱に入れ、帰っていきました。
申請書の上中央には、真っ赤なインクで「1990年12月7日」とスタンプが押されていました。
スタンプが押された書類
配達員がもっていた書類、受付の女性スタッフがスタンプを押した書類、その書類こそが、ランゲ・ウーレンGmbHの商標登記申請書でした。ランゲ・ウーレンGmbHは、「A.ランゲ&ゾーネ」を復興するために設立された会社です。
時計も一方向しか動かない。前進あるのみ。
A.ランゲ&ゾーネの復興にまつわる逸話は数々ありますが、ウォルター・ランゲの1番のお気に入りはこの5分遅れのエピソードです。
この5分遅れのエピソードは、不屈の精神、完璧の追求、そしてドイツ人ならではの粘り強さを信条とするA.ランゲ&ゾーネの特徴を物語っています。
まとめ
いかがでしたか?
ウォルター・ランゲがA.ランゲ&ゾーネの復興の際に、1990年12月7日金曜日に配達員、掃除員、受付の女性の方がいたからこそ12月7日というA.ランゲ&ゾーネにとって、重要な日に商標登録ができたのです。
どれか1人でも欠けていたらA.ランゲ&ゾーネの復興の日は別の日になっていたでしょう。
戦争も、政治体制の激変も、一旦閉ざされた市区裁判所の扉さえも、「決して立ち止まらない」A.ランゲ&ゾーネの前進を阻むことはできなかったのです。